身体性を伴った恋愛テクニックの重要性について その1

 

今回のコロナウイルス感染症の流行によって、多くの業界に置いて多大なる影響があった。私が所属している大学も例外でなく、前期の授業は全てオンラインで行われ、今のところ後期の授業もオンライン、対面の両立で講義をするとのことである。高い志と輝かしい大学生活を期待して大学入試を突破した一年生や、対面での講義を行わなければ十分な効果を得られると言い難い上級生には、未だ厳しい状況が続いているわけだが、それ以外の学生に目を向けると、以外にもオンライン授業に対して比較的ポジティブな印象を持つ学生もいるように感じる。おそらく対面での講義と、オンラインでの講義の違いがほとんどないためにそのような意見を持ったのだと推測するが、果たしてそのような意見は本当に正しいのかどうかは検証を要する。

 

さて、私は恋愛マスターとして様々な恋愛に関する経験および知識を提供することを目標とし、このブログを書いているわけだが、コロナ禍における恋愛分野の具体的なアドバイスとして、身体性を持つ恋愛テクニックの重要性を説きたい。

 

そもそも身体性を持つテクニックとは、言語や数字で客観的かつ定量的に理論が構築されたものではなく、自分の身体に染み込んだ感覚のようなものである。具体例をあげれば、昔習慣として行っていて、今やめてしまったことがあるとき、その活動を今再び行うと比較的スムーズに行うことができるといったものである。換言すれば「体が覚えている」という類のものだ。

 

そもそもなぜこの「体が覚えている」といった感覚が重要なのかといえば、恋愛という営みが人間の心理状態に依存しているという性質上、これを定量的にあたかも不変のものとして捉えることを許さないからだ。

 

これは恋愛に限らないが、たくさんの要素が関係し、各要素が変動するような事象に対しては、ある理論を構築してその理論に沿ってある人に望ましい結果を持たらそうとするのは、ある程度はうまくいく可能性を有するものの、確実性は担保されない。これは、条件を揃えれば常に同じ結果が得られることを期待するサイエンスと相反する立場が取られていることに注目していただきたい。(経営の世界や、その他の人が絡む事象においては、コンサルタントなる職業が存在するが、その人たちが必ずしも結果を残せるわけでないのもここから説明ができる。)確実性が担保されない場所では、理論的に説明できる世界しか描くことができず、言語を超えた説明できない領域を捉えきれない。

 

そこで重要になるのが身体性を伴ったテクニックなのである。身体性を伴ったテクニックは、言語で説明できない領域へ「なんとなく良い」という基準で我々を導いてくれるからだ。職人の直感のようなもので、確かにそこに科学的根拠は存在しないが、後になってその判断が正しいとわかるのだ。そもそも人によって環境や、その他の要因が違うわけであるから、その分野に状況が一定のもと理論を組み立てるサイエンスを恋愛に当てはめるのは、よく考えればいかに見当違いかがわかっていただけると思う。(YouTubeの広告で散見される「これを身につければモテモテテクニックといった類のものは、まさに恋愛に普遍性を求めようとする愚かな行為の典型例である。)

 

フランスの社会人類学クロード・レヴィ=ストロースは、ブリコラージュという概念を導入したことで有名である。そもそもブリコラージュとは、以下のような概念のことを指す。

 

ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されているが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。(レヴィ=ストロース入門 ちくま新書 p.135)

 

 そして、レヴィ=ストロースがこのブリコラージュを行う人をブリコルールと名前をつけ、そのような人たちの特徴について、以下のようなことを述べている。

 

したがってブリコルールの使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。……ブリコルール自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ、保存された要素でできている。(レヴィ=ストロース入門 ちくま新書 p.137)

 

ここで用いられた「まだなにかの役に立つ 」という基準は、まさに今まで述べてきたような身体性を伴ったテクニックである。言語化はできないが、何か役に立つのではないか、何か自分に便益をもたらすのではないかという予感に基づく判断。レヴィ=ストロースは、人間の中に潜むこういった構造について重要な示唆を与えてくれる。

 

もちろん人間の直感に基づかない真理や事実も存在する。ただ、我々は汎用性を求めてサイエンスや再現性に過度に依拠した考え方を推し進めるあまり、曖昧で簡単に捉えることができない領域に過度に侵食しすぎているきらいがあると感じているのは、私の思い違いであろうか。重要なのは、普遍性を持つテクニックと直感的な、ここでいう身体性に基づくテクニックの均衡点を探ることで、それができてこそ真の恋愛上級者である。そして、そのバランスをうまく取ることができるためには、自分の恋愛対象を、そして周りの環境をしっかりと把握する事が求められる。「兵は常勢なし。水は常形なし。能く敵に因って変化して而して勝を取る者、之を神と謂う。」といったのは、中国春秋時代における軍事思想家の孫武であるが、これは恋愛においても然りである。

 

私がコロナウイルス感染症の拡大で懸念していることは、この身体性を欠いた学びがさらに加速するのではないかということだ。自宅で恋愛本を読み漁り、知識を身につけたと自信満々に語る少年を私は知っているのだが、恋愛という大山はそんなに簡単ではない。本で学んだことだけでなく、身体性を伴った真のテクニックを身につけた先に、頂上へたどり着く道はあるものだ。