このブログについて

このブログは、自分が人生の中で体験をしたことの日記、備忘録の役割を果たすために書いたものである。

しかしながら、裏テーマというか、このブログのもう一つのコンセプトとして、人間の中に潜んでいる冒険心や、好奇心を刺激するようなブログでもありたいと個人的には考えている。

 

そもそも私自身、人よりも好奇心が強いという実感が幼少期の頃からあった。この好奇心によって、損をしたり痛い目にあうことも多かったが、それでも他人とは異なる人生を歩むことができたという実感がある。

 

しかしながら、好奇心はその人間が持ち合わせる知識にたいしてしか発揮されないというデメリットもある。なぜなら、人間は自分が認識していないことに対しては何の感情を持つこともできないからである。私にとって、これは耐えたい事実であった。というのは、その自分が知らない分野にこそ、自分が探し求めているものが潜んでいる可能性があるからである。

 

このブログのもう一つのコンセプトである、人の好奇心を刺激したいというのは、いわばこういった自分が今まで認識していなかったり、知らなかったりする事柄に対して、気づきを与えてあげるということである。

 

こうすることで、私と同じようにもっと知りたいと悩む人間の欲求を満たすことができるのではないかと私は考える。そして、その私の目標がかなった時、その人の人生はより豊かになり、そういった豊かな人間が増えることによってしか、この世界は真の意味で豊かになることができないのではないかと考える。

 

ヴィルヘルムマイスター は、ゲーテが書いたドイツの教養小説の主人公であるが、彼は人生の明暗、運命の浮沈を味わった。私も、そしてこのブログを読んでいるひとりひとりも、ヴィルヘルムマイスター と同じように、人間として成長していけるようにという願いを込めて本ブログのタイトルとした。

身体性を伴った恋愛テクニックの重要性について その2

これほどまでに身体性を伴ったテクニックの重要性を問うたとしても、恋愛理論といったものが重視されるのは、ひとえにそう言った類のテクニックは手軽だからである。

 

人間という動物は、何かを手に入れたいと思った時、なるべく手間のかからない方法を選択しようとする傾向がある。この考え方自体は悪くないのだが、時に行き過ぎてしまい、自分が行動して知識を得ようとする意欲を削いでしまう。恋愛理論なるものは、インターネットや本などで手軽に学ぶ事ができ、さらにそれらを吸収した後は、あたかも自分が意中の人と結ばれるための切符を手にしたかのような高揚感が得れれる。まるで自己啓発本を読んだうだつの上がらないサラリーマンが、仕事を完璧にこなす事ができる感覚を得るかのように。

 

しかしながら、「身体性を伴ったテクニックの重要性について その1」で扱ったように、恋愛のような不確実性が入り乱れる分野で完璧な理論を構築するのは不可能に近いため、学んだ知識には実際の使用時に綻びが生じる。それを感じ取った当の本人にできることは、恋愛理論に責任を求める、もしくは意中の人を不振な人物として扱うかのどちらかになる事が多い。

 

nayamudaigakusei.hatenablog.com

 

これを防ぐには、そもそもこの世に跋扈する恋愛テクニックの9割はパチモンであると気づく事が求められる。そんな汎用性の高い知識が恋愛界において存在するのか、そこを疑う必要がある 。

 

万人向けの書物は常に悪臭を放つ書物である。 フリードリヒ・ニーチェ

 

以上のことを考えれば、私たちに足りないものは知識ではなく、以下のような能力である事が明らかになる。

  1. 実際行動をしようとする気概
  2. 行動して得た知識をテクニックに落とし込む知恵
  3. 行動を続けることのできるメンタルケア
  4. テクニックの有効性を検証できる能力
  5. テクニックを修正する能力

 具体的に1つ1つ見ていこう。まず、実際に行動しようとする気概について、これは簡単にいえば勇気の問題である。失敗を恐れず、果敢に挑戦しようという勇気があれば、テクニックの元となる「素材」を得る事ができる。

 

そして、前述の素材をうまく活用するために必要なのが、「行動して得た知識をテクニックに落とし込む知恵」である。これがなければ、経験はただの経験のままであり、決して役に立つものであるとは言えない。この知恵をうまく活用できるものが、他の誰にも得ることのできない自分だけの恋愛テクニックを確立できるのである。

 

メンタルケアは、前述の行動を続けるにあたって、心理的なサポートがなければ継続ができず、一過性の衝動的な行動に陥ってしまうのを防ぐものである。さらに、失敗した際に次の行動にすぐ移せるだけのメンタルを育むことも期待される。

 

検証能力については、いくら自分で作ったテクニックに自信があったとしても、実際に使うと欠陥が生じているとしたら、自分で修正しなければならない。修正するためには当然、その欠陥に気づく必要があるため、この能力が必要とされるのである。

 

そして、上記のように修正すべき点に注目したら、実際に正しい修正を行うのが、この「テクニックを修正する能力」である。

 

私が願うのは、このブログの読者諸君が、以上のことを念頭に、ぜひ自分なりの恋愛理論を組み立てることである。

 

身体性を伴った恋愛テクニックの重要性について その1

 

今回のコロナウイルス感染症の流行によって、多くの業界に置いて多大なる影響があった。私が所属している大学も例外でなく、前期の授業は全てオンラインで行われ、今のところ後期の授業もオンライン、対面の両立で講義をするとのことである。高い志と輝かしい大学生活を期待して大学入試を突破した一年生や、対面での講義を行わなければ十分な効果を得られると言い難い上級生には、未だ厳しい状況が続いているわけだが、それ以外の学生に目を向けると、以外にもオンライン授業に対して比較的ポジティブな印象を持つ学生もいるように感じる。おそらく対面での講義と、オンラインでの講義の違いがほとんどないためにそのような意見を持ったのだと推測するが、果たしてそのような意見は本当に正しいのかどうかは検証を要する。

 

さて、私は恋愛マスターとして様々な恋愛に関する経験および知識を提供することを目標とし、このブログを書いているわけだが、コロナ禍における恋愛分野の具体的なアドバイスとして、身体性を持つ恋愛テクニックの重要性を説きたい。

 

そもそも身体性を持つテクニックとは、言語や数字で客観的かつ定量的に理論が構築されたものではなく、自分の身体に染み込んだ感覚のようなものである。具体例をあげれば、昔習慣として行っていて、今やめてしまったことがあるとき、その活動を今再び行うと比較的スムーズに行うことができるといったものである。換言すれば「体が覚えている」という類のものだ。

 

そもそもなぜこの「体が覚えている」といった感覚が重要なのかといえば、恋愛という営みが人間の心理状態に依存しているという性質上、これを定量的にあたかも不変のものとして捉えることを許さないからだ。

 

これは恋愛に限らないが、たくさんの要素が関係し、各要素が変動するような事象に対しては、ある理論を構築してその理論に沿ってある人に望ましい結果を持たらそうとするのは、ある程度はうまくいく可能性を有するものの、確実性は担保されない。これは、条件を揃えれば常に同じ結果が得られることを期待するサイエンスと相反する立場が取られていることに注目していただきたい。(経営の世界や、その他の人が絡む事象においては、コンサルタントなる職業が存在するが、その人たちが必ずしも結果を残せるわけでないのもここから説明ができる。)確実性が担保されない場所では、理論的に説明できる世界しか描くことができず、言語を超えた説明できない領域を捉えきれない。

 

そこで重要になるのが身体性を伴ったテクニックなのである。身体性を伴ったテクニックは、言語で説明できない領域へ「なんとなく良い」という基準で我々を導いてくれるからだ。職人の直感のようなもので、確かにそこに科学的根拠は存在しないが、後になってその判断が正しいとわかるのだ。そもそも人によって環境や、その他の要因が違うわけであるから、その分野に状況が一定のもと理論を組み立てるサイエンスを恋愛に当てはめるのは、よく考えればいかに見当違いかがわかっていただけると思う。(YouTubeの広告で散見される「これを身につければモテモテテクニックといった類のものは、まさに恋愛に普遍性を求めようとする愚かな行為の典型例である。)

 

フランスの社会人類学クロード・レヴィ=ストロースは、ブリコラージュという概念を導入したことで有名である。そもそもブリコラージュとは、以下のような概念のことを指す。

 

ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されているが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。(レヴィ=ストロース入門 ちくま新書 p.135)

 

 そして、レヴィ=ストロースがこのブリコラージュを行う人をブリコルールと名前をつけ、そのような人たちの特徴について、以下のようなことを述べている。

 

したがってブリコルールの使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。……ブリコルール自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ、保存された要素でできている。(レヴィ=ストロース入門 ちくま新書 p.137)

 

ここで用いられた「まだなにかの役に立つ 」という基準は、まさに今まで述べてきたような身体性を伴ったテクニックである。言語化はできないが、何か役に立つのではないか、何か自分に便益をもたらすのではないかという予感に基づく判断。レヴィ=ストロースは、人間の中に潜むこういった構造について重要な示唆を与えてくれる。

 

もちろん人間の直感に基づかない真理や事実も存在する。ただ、我々は汎用性を求めてサイエンスや再現性に過度に依拠した考え方を推し進めるあまり、曖昧で簡単に捉えることができない領域に過度に侵食しすぎているきらいがあると感じているのは、私の思い違いであろうか。重要なのは、普遍性を持つテクニックと直感的な、ここでいう身体性に基づくテクニックの均衡点を探ることで、それができてこそ真の恋愛上級者である。そして、そのバランスをうまく取ることができるためには、自分の恋愛対象を、そして周りの環境をしっかりと把握する事が求められる。「兵は常勢なし。水は常形なし。能く敵に因って変化して而して勝を取る者、之を神と謂う。」といったのは、中国春秋時代における軍事思想家の孫武であるが、これは恋愛においても然りである。

 

私がコロナウイルス感染症の拡大で懸念していることは、この身体性を欠いた学びがさらに加速するのではないかということだ。自宅で恋愛本を読み漁り、知識を身につけたと自信満々に語る少年を私は知っているのだが、恋愛という大山はそんなに簡単ではない。本で学んだことだけでなく、身体性を伴った真のテクニックを身につけた先に、頂上へたどり着く道はあるものだ。